なんのためか?

 お久しぶりです、お元気ですか。前回のブログからだいぶん間が空いてしまいました。その間に世の中が大変なことになり生活は一変しました。予定していたアースデイへの参加も中止になり主催者の方初め参加者も残念な結果になってしまいました。ただ今の現状を考えると正しい選択だったと思います。私たちは何を犠牲にしてでもイベントをしたいわけではありません。イベントのためにごみを出してもいいと思っていないのと一緒でイベントのために感染を広げる可能性を持ってもいいとも思っていません。イベントはお祭りであり、みなさんに活動を広めるための発表会の場だと思います。ですのでイベントがないことと環境活動の継続とは何の関係もありません。お祭りの時だけする、人とやるからするはただのパフォーマンスでしかありません。私はただのパフォーマンスに価値があるとは思えません。そしてそのパフォーマンスに踊らされる事はとても無意味に思います。これは信仰を持つ人にも言えることだと思います。信仰をお持ちの方は集会を開きます。ただ集まることと信仰心の大きさは違うと思います。いわば集まることはその方の信仰を他の人に表現することができますが自宅で信仰を持ってもそれは他の人からの評価は得られない。ただそれは問題ではないと思います。いったい何のために信仰を持っているのか?他者へのパフォーマンスのために集まっているのではそれは一体なんになるのか?だれにも評価されずともご自身の信仰に真摯であればその方の神だけはわかってくださるのではないかと思います。もちろん他の信者さんと会いたいからと思うのも当然です。ただ今はその行動が社会から求められているのかそもそもその方の神から求められているのかそれともただ自分の信仰を示すパフォーマンスのためなのか自分の欲求のためなのか?過激なことをすればするほどそれは信仰心を表すことになるのでしょうか?確かに周りにはあの人はこんな時でも欠かさずに参加すると人からの信仰心の評価にはなるかもしれません。ただ信仰している神は自宅であってもどこであってもその方が祈っていればその方の指導者には通じずともその方の神だけには通じるのではないでしょうか?そしてそれが一番大切なことに思います。もう一つ聞いた話があります。ある自然子供を愛する会(ナチュラリスト?)での一場面です。ある子がポテトチップスを食べていたそうです。するとある人がポテトチップスなんて食べるの(これはよくある感想で驚きません。問題はこの後)?ある人は顔をしかめる。するとポテトチップスを食べている子に対する態度を表明しなければいけない衝動?にかられた人が次々と発表?し始めたそうです。顔のしかめ方が激しくなり(しかめ方が激しければよりご自身は自然派?的な)、我が子にその行動をあからさまに見せないようにする人や最後には「その子外に出して」という人まで現れたそうです。恐らくその人たちは我こそは子供を愛するナチュラリストなりとばかりにその態度が過激であればあるほどご自身は子供の未来を考えるナチュラリストだと表現できると思ったのでしょう。でも一体何のパフォーマンスなんでしょう?もちろん私もわかります。日本人にはこういう傾向があることを、、、。だから私はパフォーマンスが嫌いなんです。そのパフォーマンスに飲み込まれたくはない、気をつけたいものです。

 話が逸れましたが本題に戻ります。イベントは中止になりましたが環境活動は一人でもできるのです。2月の終わりから学校が休みになりみんなが戸惑う毎日が始まりました。そんな中で我が家は定期的に近所の公園に行きます。住宅街の中にありそんなに大きくはないものの大阪市内に比べれば遊具のあるスペースと軽いサッカーか野球のできる広場がある市内から来た私にとっては十分だしちょうどいいサイズの公園です。ただだんだんごみがすごいことになってきたのです。私が子供のころは公園にはごみ箱がありましたのでごみはごみ箱へ入れる物でした。それに物価も高かったし(とんがりコーンはよそ行き用)お小遣いもこんなにありませんでした(中学になって初めてジュースを自分で買いました。ちなみにその頃にオレンジの自由化が始まりました!知らないかな?)。しかし今は公園にごみ箱がないのです。このことに関してはまた後日熱く語らせて(長くなるので)いただくとして結果どこの公園も日々ゴミだらけで特にこの休みが始まってからはすさまじいのです。そこで私はごみの日に一人で(子供も一緒に連れて行って体験させてあげたいのですが断られました)ゴミ拾いをすることにしました。初めはすごいごみの量でこれを持って帰ってごみ屋さん(愛情を込めた大阪の昔ながらの呼び名です♡)が持って行ってくれなかったらどうしようと心配でした。ある時はなぜか買い物かごが3つも落ちていてラムー?とかいう聞いたこともない「このかごどうしよう、、。」となったこともありました。その時に近くを通りかかったゴミ回収中の係員の方に「おはようございます。公園のごみ拾いをしているんですがこれ持って行っていただけます?」と聞いたところ「いいですよ。」私のごみ袋も見て「それも持って行きましょうか?」と聞いてくれました。私は「いえ、もう少し拾いますのでこちらはまだ結構です。ありがとうございます。」といいました。その方お若くて私がそんなお願いをして侮辱ととるのではないかと心配しましたがそんな会話ができました。私は大急ぎで残りを拾いまくり反対側に回ってきたその方に「お願いします、ありがとうございます。」と渡すことができました。その方は軽い笑みで答えてくださいました。その後もごみの日の公園のごみ拾いの時に会えばごみ回収の方にお願いしています。いつも家に持ち帰ったときはちゃんと回収してくれるか心配で必ず外を覗いています。私そんなにボランティア精神にあふれているわけではないのでごみ拾いのごみを分別してくださいなんて言われたら速攻市役所に電話して絶対に引き取るように駄々をこねる覚悟でした(今も、、、)。そして面白いのがごみ拾いとはその時の季節やごみを捨てた人の年齢層や誰と公園に来たかや地域の人の層などが分かります。動物のフンや公園の柵の内側すぐにごみが多いと地域性(失礼ながら地域の人の層)が分かります。最初の頃は子供たちが団体で来て団体で食べて捨てていましたが最近は団体で来ずバラバラで来るようになりお菓子も食べまくらなくなっているようです。駄菓子は子供、巨大植木鉢を植え込みに投げ入れたのは恐らく50代より上の男性、たばこの吸い殻でも本数が多くて中途半端に吸いまだきれいなのにすぐに捨てているのは子供がびくびくして吸った跡(大人はゆっくり吸える限り吸いポイっと捨てます)。ウェイトティッシュは女性、みかんの皮は高齢者、ラムーの買い物かごは免許を持っている人、もちろんこれはすべて私の想像です。

最近はごみの量が減ってきました。外出制限の強化か親が休みになりさすがに大っぴらに捨てないかそもそも公園で食べなくなったか、親の仕事が怪しくなって今までのようなお金が無くなったか、、、。もちろんこんな調査を趣味にしてごみ拾いを始めたのではありません。学校が休みになりウィルスにまだ社会に出ぬ子どもたちが巻き込まれていく、今の状況に身を置くしかない子供たちがかわいそうで、いつも遊ぶ子供たちの公園をただ自分のしていることに気付かず自分たちのごみでおぼれていく子、ただ巻き込まれていく子を守ってあげたかったのです。メッセージを送りたかったのです。このまま流されてはいけない、自分で泳ぎださなければいけない、私たち大人はそう願っていると無言ですが伝えたかったのです。働いている人は税金を納めて貢献します。私は無職無収入で子供もはっきり言って苦手で子供たちに何かできることはありません。今後日本経済に貢献することもありません(買い物しませんから)。ただ人は何かできるのです。こんな時でも何かできるのです。私にとってそれがごみ拾いなのです。きっと子供たちが大人になったときにごみの落ちている公園に行って思うでしょう「あれ?ごみが落ちていると」それが無意識な違和感のように、、、私はそれで大成功です!

 ミミズコンポストの前文を書くつもりが全文になってしまいました!また近々こっちも熱く書きますね。おやすみなさい。